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死ぬ前に抗う

根拠の無い自信

読書の習慣が無かったので、ここ1ヶ月の読書量は例年の1年分の読書量に到達している気がする。数えていないけど、1ヶ月で10冊以上は読んでいるのかな。しかし、読んで満足しているだけでアウトプットはしていない。ただなんとなく記憶として蓄積しているだけなので、活かせていないのか。というわけではない、みたいだ(なんとなく)。

それでも、根拠の無い自信が芽生えるのだ。数十冊の本を読むと強くなった気がすのだ。読んだことで知識が脳内にストックされた気分になる。このストックが武器にも防具にもなるのだ。週刊少年ジャンプ的に言うとオーラとか覇気みたいなものだ。何を錯覚しているのか日々、積み上げられている気になってしまい人と話すときも内心は強気になっている節がある。「おれの中には村上春樹ロバート・キヨサキみうらじゅん茂木健一郎家入一真がいるんだぜー」とかスタンド能力が出せるのか謎の他力本願な思考が芽生えるのだ。本当に意味不明だけど時々、自信になっている。このままいくと一ヶ月で10冊のペースでいくと一年間で120冊になる。私の中に120人が詰め込まれる。120人力だ。ますます、錯覚が著しくなる。読んだ冊数分強くなる。

更に特化したジャンルを読み漁ればそのジャンルに強くなる。例えば、官能小説だ。文章によるエロを表現する読み物だ。文章を読み、想像をして心と下半身が動いてしまうものだ。この官能小説を読み続ければ、様々な文章によるエロ表現に触れることになる。そして、徐々にエロ表現に読み慣れることで耐性が出来る。心と下半身が動くことが減ってくる。それは自分自身が強くなったことを意味するのではないのか。そして老いによる心と下半身が動かなくなることもある。“エロ耐性を極めること”老いが重複してしまう可能性があるので差別化していこう。エロ耐性と老いの違いは意識しているか無意識なのかだ。エロ耐性の極みはもう、エロに対しての表現を余すこと無く体験していることだ。様々な角度からのエロ体験を経てエロに対してのエロ盾をかざしているのだ。そして老いだ。老いによる心と下半身は否応無く動くことが無い。これはもう気持ちと相反することになる。悲しいかな。私はこんなことを書きたいが為に読書について書いたわけじゃないんだけどな。